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SS「呪術」

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とある北の夜街を一人の男が歩いていた。

少し裏へと回りすぎたか、人の気配がない。

この男は一つの場所にとどまらず、定期的に移動しながらその命を繋いでいる。

その理由というのは、これから話すのだが。

 

「今宵は食にありつけそうにないな」

男はそう呟きながら、どうしたものかとただただ少しの街灯を頼りに歩き続けた。

すると、目の前にいきなり女の後姿が現れたではないか。

先ほどまでは気付きもしなかったあたり、きっとどこか横の小道から出てきたのだろう。

こんな夜更けにこんな人気のない道で、女が一人歩いている。

いささか不用心にもほどがあるのではないか。

いや、これはもしかすると何かあってのことかもしれない。

例えば、悪事を働いたあとの帰路だということも考えられる。

仮にそうなると、相手が女と言えどこちらも用心しているに越したことはない。

何はともあれ、素性を知るにはまず話を聞かなくてはならい。

 

と、男が声を掛けようとした刹那

女の腰からひらりと白い何かが空を舞った。

薄暗い街灯に照らされて、はっきりとはしないもの、

それは重力に逆らうことなくそのまま地面へと接地した。

どうやら女はこのことに気付いてはいないようだ。

 

「もし、そこの貴婦人。何か落とされたようですが」

女は立ち止まり、男の方を振り向く。

そこには、十人中十人が口を揃えて美人と言うであろう顔面と

日々丁寧に手入れされているであろう綺麗な金髪が、その前髪がくるんと弧を描いていた。

 

「これは失礼いたしました。ただのハンカチと言えど一応大切なものなので助かります」

「いえいえ、ところでどうしてあなたはこんな夜更けに一人きりで?」

「ああ、実はわたくし酒場での仕事終わりでございまして、この道がいつもの近道となっているのです」

「なるほど、こちらも宛てのない身。お一人では危ないこともあるかもしれませんので、よろしければお家まで送り届けましょうか?」

「それはそれは、しかし・・・いいえ、ではお願いいたします」

 

こうして男と女は二人、肩を並べて歩くことになった。

男は左に、女は右に並んだ。

男は特に自らのことを話さず、ただ女の仕事の話を、愚痴を聞いていた。

やれお客がたまに乱暴で手に負えないだの、店主が料理を焦がしてしまっただの。

時にムッとして、時に楽しそうにその女は話している。

なるほど、特に面倒ごとがある女ではないようだ。

これは、そろそろが頃合いだろう。

 

「それで、あなたはどうしたのです?」

男はそう言いながら、自分の右腕を女の背中へと回した。

 

お互い前を見ながら歩いていることと、女が話に夢中であることで気付かれている気配はない。

すると、男の右腕が大きく、音もなく

まるで見たこともない獣とも爬虫類ともつかないような、邪悪なそれへと変化した。

これで、今宵もごちそうにありつける。

 

「あ!」

不意に女が声を上げたものだから、つい食事の機会を逃してしまったではないか。

男の腕は元のか細い人間の腕へと戻っていた。

「どうか、なされましたか?」

「いいえ、ついつい話し過ぎてしまって。わたくしの家はあそこでございます」

 

女が指をさした建物はどこにでもあるような

屋根と、窓と、扉が付いている小さな家だった。

 

「よかったら、少し何か食べて行かれませんか?大したものはございませんが」

 

この家の中で女をいただくのも悪くはない、か。

いや、その方がむしろ好都合だ。

「ちょうどお腹が空いていたところなので、決して迷惑でなければ是非」

「お礼と言っては何ですが、ひと時の休息とでもなれば幸いでございます。」

 

男は女の家内へとあがりこんだ。

一人で暮らしているのであろうか、

しかし、それにしてもこの部屋は殺風景だな。

生活に必要なもの以外は何も見当たらない。

 

「お料理の支度をしますので、しばしの間おまちください」

 

女はそう言って、男の腰かけた椅子の後ろ側、

キッチンへと消えて行った。

 

この女も存外苦労して生きてきたのかもしれない。

思えば、男の生きてきた道も過酷だったわけだが。

自分が他の人間とは違い、呪術を受けたある種の悪魔であること。

本当はいたって普通に暮らしていたかっただけなのに、どうしてか人を食して生きねばならなくなってしまったこと。

しかしもう、どうにもならないことなのだ。

人を殺めることの罪悪感など、とうに失ったはずなのだが、

この部屋を見ていると、なぜだかこの女だけは生かしておきたいと考えてしまう。

今までそんなことはなかったはずなのに、それがどうして今になって。

 

もしかすると、まだ人間の心というものがかほど残っていたのかもしれない。

これがもし、女の容姿や性格によるものが多少は影響していたとしても、もうそんなことはどうでもいいのだ。

今こうして、そう思えていること自体が男にとっては心地よいのだ。

今からでも遅くはない。

この女を守り、共に生きていくのも悪くはないな。

 

こうして、男は女と結ばれた。

男は以降、人を食すことはやめ、真面目に働いて家へと金を回した。

女は男の意向ということもあり、働かないかわりに至極簡単な家事をこなしながら男の帰りを待つ日々を送った。

子を授かることはなかったが、それでも夫婦ともに幸せな毎日を過ごすことができた。

 

暖炉の前で仲睦まじく椅子に腰かける夫婦。

もう、そろそろ話してもいい頃だろう。

「実はあなたに出会う前、呪術を受けたことにより、人を食していた」

「あら、そうなんですか。でも、今はそんなことはないのでしょう?」

「そうだが・・・過去を責めることはしないのか?」

「そんなの、今更ですよ」

「あぁ、ありがとう。決して許されるべきことではないのは分かっているんだ。それでも、責めないでいてくれて、ありがとう」

男はうつむき、嗚咽まじりに感謝の言葉を述べた。

 

暖炉に照らされ、揺れる二つの影。

女は男を慰めるように左腕を男の背中へと回した。

 

クラゲの触手のように、奇妙にうねるその左腕を。

 

 

そういえば、どこかで聞いたことがある。

端正な顔を持ち、永き寿命を与えられ、

男を誘惑・洗脳し、頃合いを見て、死へといざなう。

そんな呪術を、恩恵として授かった生物のことを。

 

女は自分の部屋へと戻り、

いつか落とした白いハンカチをポケットへと詰め込んだ。

 

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